令和元年(2019年)8-9月中国調査旅行 New

1.旅程

8月22日(木)東京→北京→鄭州 NH961便で羽田(9:05)→北京(12:00)。北京空港から、空港線・地下鉄を乗り継いで北京西駅へ。ここですべての列車の切符を購入する。G573便で北京西駅(16:18)→鄭州東駅(19:24)。北京西駅は混雑しており、チケットの購入まで30分かかる。

8月23日(金)鄭州→許昌 早朝にホテルを出て鄭州東駅へ。高鉄G279便で鄭州東駅(11:21)→許昌東(11:43)で河南省許昌市へ。許昌東駅からバスで許昌博物館へ。夕方許昌博物館を出て中心部の城郭内にあるホテルへ。近くの春秋広場と許昌駅周辺の書店・古玩城を歩くが、成果はない。

8月24日(土)許昌 文峰塔と文峰塔博物館へ。文峰塔は無料で見学することができるが、入り口がわかりにくい。周囲は人でごった返している。博物館は、古代の資料は少ない。その後文峰路隧道を北に歩き、古玩店を探すが、地図上であるはずの店が軒並みない。北側から許昌城の水路内に入り、曹丞相府東の建安文化古玩城へ。ほぼ店が閉まっていて資料収集ができない中、書道用品店で印を購入。

8月25日(日)許昌→鄭州 早朝に文峰塔へ徒歩で行く。更に人だかりが多くなっていた。許昌東に移動し、高鉄G1216便で許昌東(11:11)→鄭州東(11:34)、鄭州に戻る。そのまま地下鉄を乗り継ぎ、河南博物院へ。変わらず臨時の展示場で少しの作品を展示していた。人が多く作品撮影もままならず。地下鉄で燕庄駅まで戻り、バスに乗り換えて唐人街文化広場へ。中国茶の市場で3つの建物にびっしりある。通常の古玩の店もあったが気になるものはなかった。一番奥にある書道用品店で筆を購入。鄭州は地方都市並に筆が安いが書き心地は……。

8月26日(月)鄭州→亳州 翌日からは亳州・商丘の旅。朝一番の地下鉄にのり、鄭州東駅へ。高鉄G1968便で鄭州東7:38→商丘8:48、在来線乗り場に行きK133便で商丘9:24→亳州10:43。乗り換え時間が短かったので大丈夫かと思っていたが、20分列車が遅れて楽々間に合った。亳州にはなぜか予定通り到着。寝台席を取っていたが乗ったと思ったら降車させられた。亳州駅からバスを乗り継いでホテルへ。月曜日のため博物館は休館。北部の花戯楼に行く。この周辺は、書道用品店、古玩、書店も多くあり、前回十分に回れなかったので花戯楼街だけではなく小さな通りまで歩いた。書道用品店は閉じているところが多く、不況の波を感じた。和平路の華陀像から南の通りに入り、人民路まで歩く。曹操の地下運道周辺を探索した。

8月27日(火)亳州 亳州はいまいち公共交通の便が悪い。値段も高い(他の都市の倍額)。この日は博物館に行こうと思っていたので、朝の散歩で博物館まで行ってみた。新しい博物館は町の中央部、曹操公園の中に建てられた。午前8時から開館をしているので、7時台にホテルを出て博物館まで歩いた。予想通り展示が充実している。新石器時代から漢代の文物はもちろん、曹操宗族の草塼も展示コーナーが作られている。ただ、展示品は46点と少し作品数が減っているようだ。3時間以上博物館で見学し、午後は曹操広場、魏武広場周辺を調査。目立った成果はない。

8月28日(水)亳州→商丘 亳州のホテルを早朝に発ち、亳州駅へ。K134にて亳州9:14→商丘10:27。指定の席が取れたのは良かったが、列車の中はごった返している。当然のごとく、私の座席も人が座っていて、その人をどかすところから始まるが、周囲どこも荷物で一杯で、スーツケースを置く場所がない。仕方がないので、座席に置いて、その横にお尻をはみ出させて座る。すぐに車掌さんに怒られた。親切なおばちゃんが、無理矢理スーツケースを置いてくれた。狭い狭い地獄の1時間。商丘はとてもわかりやすい道の構成である。南進してホテルに立ち寄って荷物を預け、そのまま同じ路線で商丘博物館へ。周囲には何もない。博物館は前回の訪問でHPには情報が掲載されているができていなかったものである。外側は非常に立派。日本人は珍しいのか、パスポートをじろじろ見ていた。2時間ほどで博物館を出て、そのまま商丘市の中心部商字へ。変な地名であるが、南北に延びる神火大道と東西に延びる南京路が交わる場所である。この周辺には古玩城や書店もあるのでとにかく歩いてみる。応天古玩城、夏華古玩城等に行ってみた。もしかしたら、土日であれば盛り上がっているもしれないが、何もなく、なぜか新華書店で果物が売っていたのでリンゴを買って帰った。

8月29日(木)商丘→洛陽 この日は朝からついていない。この日は、洛陽まで移動するつもりであったが、まず、商丘駅まで順調に行ったが、高鉄の入り口と在来線の入り口が完全に分離されていることに気がつかず、うろうろ。在来線は南口から、高鉄は北口から侵入する。どうも北の方に回るらしいということらしいことに気がつき、徒歩で移動しようとするが、近くに住んでいるらしいおばあちゃんに声を掛けられて、無理だとわかる。どうしようと思っていたら、目の前に小さな掲示があることが気がつき、バスが止まっている。南口から北口に行くバスがあった。それに飛び乗って北口へ。結構時間がかかった。地下で下ろされ1階の改札口に行ったら、セキュリティ待ちの大行列。この光景は高鉄ではあまり見かけず、一人旅では開封駅以来である。二度と来ないと心に誓いながら割り込まれないようにひたすら並び(それでもどんどん割り込んでいくが)、X線検査でも足止め。1時間以上前に駅についていたのに、すぐに乗車である。高鉄をなめていては怖いと思いながら、なんとか間に合ったことに感謝した。高鉄G1975便で商丘11:29-洛陽龍門12:59着。ここからはホテルまで何度か行っているので、77路線で中州中路八一路口、乗り換えて9路で中央病院前まで。午後2時前にホテルについたが、ホテルの部屋のことでフロントの人ともめて、結局この日は活動できなかった。移動で1日が終わった。

8月30日(金)洛陽2日目 この日は朝食を取ってすぐに出発。新安県と鉄門に出かけた。荷物はリュックサック一つ、半袖短パンで気楽に出かける。この日は、新安県博物館と千唐誌齊博物館を参観するためにやってきた。千唐誌齊は遠いことが分かっていたが、鳥取の学会発表で使う予定の資料をどうしても見たく行き方をしらべて行った。谷水東で一旦下車したが、下調べをした新安までのバスが分からずここでも右応左応。701路に乗って新安の中心部まで行き、一旦下車をして他の車に乗り換える。鉄門行きのバスに乗るがラッキーなことにそれの終点が千唐誌齊であった。が、喜びも束の間博物館に着いたのは午前11時を過ぎていたが、博物館が空いている様子はない。そこに無情の「臨時閉館」の掲示。改修工事のためとあるが、工事はしていない。再チャレンジを心に決めて、急いで新安県に引き返す。世紀広場近くで下車して新安県博物館へ。HPはきれいだったが、旧館のまま。参観者なし。珍しい後漢の陶倉に肉筆文字が見られた。ここは函谷関があった地域で、瓦当にも「関」の文字が押されているものが沢山ある。他、秦代の青銅器や「永興」と書かれた塼があった。ただし、この博物館のシステムも午前・午後制。12時まで開館とされていたが、11時半には昼ご飯のため展示室を閉じようとするので、お願いして見せてもらった。博物館横の売店の人も昼前から家族で麺を食べ始めている。ほぼ相手にされないが、それでもなんとか筆を購入した。

8月31日(土)洛陽3日目 この日は偃師市へ。列車がないのでバスで移動を目指す。まず9路の終点である東花壇へ。その後偃師行きのバス乗り場がわからず、ここでも右応左応。701路がわかっているが留まってくれない。洛陽東駅まで行ってバスに乗れた。1時間のロス。偃師商城博物館近くで下車したが、たどり着いたのが11時30分。ここも午前午後の2部制で午後は2時半から。二度と来ないと思いながら、事前に調べておいた古玩城や書店を歩く。少し大きめの新華書店があったが、珍しい文房具も置いていた、ただ、ここでも昼時で店員さんがおらず何も買えない。時間を持て余したがなんとか午後2時半になり、博物館へ。偃師は文物の宝庫であり、古代も南北朝も青銅器も石刻も貴重な資料が多い。ただ、何年も前に樋口先生らと来たときと少しも展示がかわっておらず、墓誌もプラスチックケースで覆われていてよく見えない。消化不良のまま博物館・偃師をあとにした。

9月1日(日)洛陽4日目 待ちに待った日曜日。人は多いが、物も動く。洛陽は地下鉄工事中で町は交通渋滞でごった返している。路線計画を見ると、2路線作っている。南北が洛陽駅の少し北から洛陽龍門駅まで、東西は谷水か洛河大橋の東まで。劇的に移動時間が短縮されるだろう。休日は車も少し少なめ。洛陽駅南にある王場公園に行き、書店等を訪問。古玩城は活気がない。古玩城の中にある華夏博物館で拓本を見学。人もいないがとても素晴らしい拓本を展示している。北魏の墓誌原石もある。続いて、老城の老集には古玩城が集中している。普通の店は高くて手が出ないが、露天はなんとかなる場合も。この日は昼になっても盛り上がらず、収穫はない。西大街で書道用品の下見をした。紙のいいものがあるが重くて日本には持ち帰れない。中州東路や西大街は人で一杯、とても不況とは思えない。

9月2日(月)洛陽5日目  この日は博物館などの休館日。8月31日に偃師市に行ったのと同じ方向で漢魏洛陽遺址に向かう。漢魏古城は一度白馬寺の横で城壁跡を見学したことがあるが数年ぶりの訪問である。中国のサイトで10メートルもありそうな巨大な城壁がある。これが金村という村にあるのは分かっていたが、探すのに一苦労。金村は北魏城の北西の角に位置し皇帝の居住区があった。セキュリティのためには巨大な城壁が必要なのか。それが探せないで諦めて帰ろうとしたところ、目線の先に茶色の壁のような物があった。夏なので草が生い茂っていたが、間違いなく城壁。しかも大きい。近くまで近づけないので冬にチャレンジしようと近い、白馬寺まで戻ることにした。途中、柵で覆われて入れない場所があったが、あとでここが古城の遺址内であることがわかった。国道310号線沿いにある遺跡の表示版を撮影していたら、小さな入り口があり「洛陽城内遺址」と書かれた看板があった。中に入れそうなので入ってみた。入り口に事務所があるが誰もいない。案内板を見ると、奥に遺跡があるようなので、そこまで歩いてみる。強い日差しにじりじり焼かれながら、やっとたどり着いたのが「西陽門」。門の水溝がそのまま見学できるようになっていた。また310号線の南に位置する永寧寺は場所が分からず。洛陽博物館では沢山の文物が発掘されている。再度の訪問で挑戦したい。

9月3日(火)洛陽6日目 邙山西側の調査 邙山は漢代と北魏の墳墓がある。その区域は未だにはっきりしないが、邙山へのアクセスを考えた場合、河川を利用して物資を運んでいないのではないのかという仮説に従った場合、西側の部分は、谷水のあたりから北に延びる金水が西限ではないかと思っていた。その場所がどのような場所なのか確認をしたいと思っていた。その手始めとして、谷水から邙山の西の方面に行く路線バスに乗り、その様子を見学に行った。楊冢という場所を過ぎてから、山にはいりどんどん登ってゆく。バスが寧楽高速を潜る直前に邙山の西側の谷が見えた。川から切りあがる土地を見たときに、ここから墓葬の構造物を引き上げるのは無理だろうと感じた。谷水西に戻り、そのまま洛陽駅へ。その後、邙山中央部を南北に孟津まで延びる県道に行くバスに乗った。王城大道から小浪底大道につながる道は、周辺がほぼ開発され、マンションなどが立ち並んでいる。とても昔の墳墓があった様子はない。帰りは孟津汽車駅から朝陽大道から洛陽東駅につながる243号線沿いはまだまだ土の匂いが残っている。ただ開発は急ピッチで進んでおり、この一帯が開発され尽くすのは時間の問題だろう。この道路沿いには孟津博物館が建設されていた。外観はほぼ完成し、相当に大きい。完成が待ち遠しい。

9月4日(水)洛陽7日目 この日は待ちに待った洛陽博物館。洛陽市外の活動はカメラを変えて撮影に臨んだ。しかし、参観者の撮影は大抵がスマホ。中国人らしくファーウェイ製品を使用している。博物館は暗く、一眼を持ち込んでも手ぶれをして苦労する。しかし、スマホのカメラは楽々撮影できるらしい。日本製カメラはそんなにいいのかと思いながら、撮影を続けた。展示としては5月と変わらないが、山西省の大同市博物館の収蔵品など興味深い。前回みのがしていたが、現在、古墓博物館の一部になっている景陵から出土した副葬品が展示されていた。とても上品な出来である。

9月5日(木)洛陽8日目 洛陽の活動も最終日。長く滞在したが、まだ訪問し尽くせない。早朝にホテルを出て洛陽民俗博物館へ。ここも旧式の博物館で、前回は午前終わりに追い出された。続きの撮影を行うが、文物は民国時代のものが多くあり興味深い。扁額の展示室があるが、ここも清代や民国の資料が豊富にある。続いて、瀍水と洛河の調査を行う。洛陽民俗博物館は老城の南東角にあり、すぐ横を瀍水が流れている。この日は台風が近づいており、相当に暑かったがその中で博物館から南に歩き、洛河との接続地まで来た。驚いたのは、瀍水が洛水に流れ込んでいるのではなく、洛水の水が瀍水に流れ込んでいる。そのまま洛河を新街橋まで歩いた。治水工事が完成しており、公園風の河川が続いている。九都東路からバスに乗り、今度は老城南西の角から西に延びる河川沿いを歩いた。応天門遺址から周王城広場まで歩く。

9月6日(金)洛陽→鄭州 洛陽龍門駅前まで移動し、高鉄G1918洛陽龍門駅(11:04)→鄭州東(11:42)。ホテルに荷物を預けた後、地下鉄人民路駅の新華書店へ。中原図書大厦は見るべき図書はないが、回声館という書店に入って驚いた。最初は音楽関係かと思ったが、今はやりの書店に珈琲館が併設されている。書店というよりはお茶の店という印象である。ここで驚いたのが書法コーナーが充実していることである。北京の王府街書店、瑠璃廠の中国書店並に書店がある。最近北京で時間がとれないので出版の様子がよく分かった。墓誌の書物を購入したが、後で分かったことは北京とは経路の違うものが置いていた、スーツケースがパンパンで購入できなかったことを悔やんだ。

9月7日(土)鄭州→北京 今日は、鄭州で開催される中国民族大運動会なるものの開会式。交通制限をされるということで少し早めにチェックアウト。地下鉄1号の始発に乗り、鄭州東へ。鄭州東駅は環状線(2号線)が開通し、地下鉄乗り場が少し広がっている。高鉄G802で鄭州東(8:00)→北京西(10:25)。北京までノンストップだがそれでも2時間半かかる。今回の北京滞在は1日だけの予定で、書店巡りをしようと予定していた。国内に入ってから日本からはなかなかつながらない中国国家博物館のサイトをみていたところ、建国70年の展覧会として、いくつもの興味深い展覧会を開催していることが分かった。8月6日から展示が始まっているがうかつなことにチェックしていなかった。河北省鄴城で見た白石の仏像が多く展示されている展覧会があるということもあり、急遽国家博物館にでかけることにした。1号線天安門東駅を下車したが、休日ということもあってか、相変わらずの激混。特に博物館前の「関所」(おわかりいただけるだろうか)を通過するのに30分以上かかった。パスポートを読み取ることができず、余計に時間がかかる。そして入館のチケットを受け取る仕組みも変わっていた(入り口左のプレハブのようなところに行って、パスポートを提示してQRコードの印字された紙を受け取り博物館のチェックを受ける)。博物館の中に入ると、午前中のような混雑はなく、入り口のセキュリティチェックもすぐに終わった。参観される方はご注意を、参観した展覧会は4つある。①「古代中国」。地下にある広い展示場で行われている基本陳列である。名称が変更されていたので 行ってみたが、以前上の階にあった大于鼎や子母方鼎等の大型の青銅器がここに下ろされていた。その他、墓誌の入れ替えがあるなど若干の作品交換があったが、多くは以前と同じ。ただ、ここに展示している資料は一級文物ばかりでさすがだ。②「万里長風-新疆文物精展」。新疆で発見された文物の展示。最近地方の博物館でもよく見かける。私は河北博物院で見た。東晋の肉筆文書が展示されており、興味津々で参観した。写経類が多く見られた。③「小城故事-湖南龍山里耶秦簡文化展-」。肉筆書では最も注目されている里耶の竹簡の展覧会。実物資料は初めて見た。他の簡と同じく小さな文字であるが、墨色が明瞭である。内容はよくわからないが、短い文書が多い。国家博物館の所蔵品である権銘・量銘などの青銅器等の普段は展示されていない秦代に関連する資料も見ることができ、充実した時間を過ごした。④「和生共生-臨漳鄴城仏造像展-」。東魏・北斉の都であった鄴城から出土した文物の展覧会。鄴城は鄴城博物館ができたときに行ったことがある。撮影禁止の場所で撮影をしていて怒られたが、そのときの白石の仏教像が沢山ある。鄴城はもう一度行ってみたいが、ここは河北省邯鄲市と河南省安陽市の中間、河北省磁県の東にあり、簡単に行けない。正岡さんが一緒の時にやっと行けたが、ここまでの移動を考えるととてもありがたい。ただ、ここに入るためには30元が必要であったが、入り口の看板のQRコードを読み込んで決済する仕組みになっていたが、それが使えない外国人への配慮はなく、上の階にあがってすぐに出口近くの小さなカウンターまで行ってチケットを購入した。ここにはそもそもチケットを購入できるとは書いていないし、チケットも金額もないQRコードが印刷された感熱紙。博物館の中までスマホ決済がすすんでいることに驚いた。石仏が展示品のほとんどであるが、北魏時期に既に優れた白石の像が造られていたことや、背面に楷書の長文の題記が施された大型の石仏が印象に残った。鄴は北魏時期にはまだまだ未開の地という考えはまちがっていた。博物館を出たのが夕方、天安門東はまた混雑しており、西洋人に注意されながら列に入って王府街と西単の書店、瑠璃廠の中国書店を訪問した。活動時間が20時間にもなる長い1日だった。

9月8日(日)地下鉄と機場線を利用して6:40にはチェックイン開始。出国検査は相変わらず厳しく、カメラの小物まで調べられる。荷物はばらばら。ラウンジで荷物整理をしてNH964で北京(8:20)→羽田(12:50)。心配していた台風はまだ来ておらず、NH953で羽田(15:00)→松山(16:30)。松山に帰ってから大学に行って書類の作成。

2.博物館等の調査について

(1)許昌博物館

許昌博物館は新しい博物館である。例によって非常に大きい。この日も30度を超えており、2019年夏の中国調査が始まった。

正面玄関に陳列された石の辟邪。手足が切り取られて痛々しい。漢代の文物が多く展示されている博物館である。

陳元方の残碑。漢代にはこのような資料が多かったのか、以前も北京の拓本店でこのような残碑を見たことがあった。堂々とした隷書の文字である。

キャプションには「研磨器」とあるが、硯もこれと同じである。漢時代の文物で、禹州市で出土している。

曹操の巨大な胸像。肩幅は2メートルを超える。

漢代の「宜子孫富番昌楽未英」の文字塼。この塼の形を見ていると、墓誌蓋の原型は漢代から来たのではないかと思う。墓誌蓋の頂上部が浮き上がった形もこのようなところから来ているのであろう。

漢の故の郭君碑首。傾いているが、円首であることがはっきり分かる。暈の彫刻は簡素である。この資料は許都故城から出土しており、この周辺から出土したものである。とすると、この碑は墓碑ではなく「徳政碑」であろう。

この壁面は、すべて画像塼で埋め尽くされている。許昌は漢代の出土物の宝庫である。石製の大型の石材からは、当時の巨大な権力と経済力を想起させる。

画像石の部分である。虎と龍の絵であろう。徐州のものと共通性が高いと思われるがはっきりはしない。

こちらは鳳凰の写真。足の表現がとてもうまい。

この瓦当は許昌博物館を代表する重要な資料である。後漢のものであるが、禹州市新峰の墓地から出土している。「陽瞿」とは、古代の地名であり、戦国時代には韓国の都城であった。禹州は出土物が多く興味深い地である。

「許昌砦」と書かれた石の看板

(2)文峰塔博物館

許昌塔文化博物館の裏門。午前9時から開館のはずがいつまでも空かないのでどうしたのかと思っていたら、この裏側から入館することになっていた。

こちらが許昌塔文化博物館の正門。塔が正面にくっきり見える。

許昌塔は明代の建築物で十三層ある。相当に大きい建物であり、破壊されずよく残っていたと感心する。

許昌塔の近景。寺院建設の工夫があちこちに見られる。

博物館の中庭は手入れが行き届き気持ちが良い。二つの展示室があるがそれほどの大きな規模ではないが、塔に関わる展示物を中心に集めている。

古い資料はほとんどないが、北魏の嵩岳寺の塼がある。嵩岳寺は登封県の太室山の南麓にあり、正光4年に建設された。ちょうど墓誌が沢山作られた時代であり、相当に硬そうである。

緑釉のかかった塔水榭である。大型の焼き物で漢代のものだが出土地ははっきりしない。

北魏の観音石像である。禹州市文物管理所の所蔵となっている。白石とは言えないが比較的に色が白い石像であり、重厚感がある。銘文はない。

こちらも北魏の石像である。禹州市文物管理所の所蔵品である。五体の石像が彫刻されているが、顔幅は比較的に広く、北魏というよりも唐代の印象が強いそれでも光背は龍門造像記を彷彿させるものである。

写真は倉楼画像塼である。拓本が貼られているので色彩があるかどうかは分からない。

展示物に「塔」の書体を抽出したものが作られている。「塔」をテーマとする博物館なのでそれを象徴する展示物を作ったであろうが、苦肉の策のように見える。ただ、書体・字形に興味があるものにとっては面白い。

中国全土の「塔」を売り物にしている博物館・記念館等の入場チケットをまとめたものである。この展示は色彩的にはカラフルだがとても地味である。ただ、展覧会を企画し作品を集めるという視点からするととても時間のかかる収集をしている。これを集めた人の胆力に感心する。

上記の一枚を拡大した写真。西安の大雁塔が中心にある。チケットをよく見ると、スタンプを押したものがあり、誰かが中国全土を廻って集めたのだろうということが推測できる。

(3)河南博物院

鄭州市にある河南博物院の本館が閉鎖されて何年たつだろうか、何度きてもこの状態である。以前は博物館までタクシーで行かねばならなかったが、今は地下鉄2号線が整備され、関虎屯駅から西に歩くことができる。、とは言っても、夏の暑い時期はこの距離が堪える。以前と違ったのは、工事のための外膜が貼られたこと、やっと修理を始めるのであろうか。

結局上の館の西にある臨時の展示室を参観する。大象中原 河南古代文明珍宝展である。陳列物は一級文物に近い粒ぞろいの名品であるが、さすがに4回5回とみると飽きてくる。

北魏の劉根造像記。石の状態、彫刻、石刻資料としては一流である。拓本を採られていない石面は光輝いている。墓誌蓋の研究をしていて、その彫刻は技術的にこのような絵画彫刻から影響を受けたという指摘に出会った。しげしげと観察したが、蓋都の共通性は分からない。

青銅器の鼎。4本足が基本なのか、3本足が基本なのか。

こちらも殷代の青銅器。モチーフが多彩でとても面白い。

(4)亳州博物館

写真は安徽省亳州市にある亳州博物館の正面入り口。ずっと以前に樋口先生らと旧館の時に来た。旧館はどこかと思って検索すると、花戯楼の中にあったらしい。そういえば、重厚な作りの建物をすり抜けて博物館に入ったことを思い出したが、ここがそうだったのかと思う。今は、亳州の中心部、曹操記念公園の西南の角にある。朝のランニングで亳州博物館まで自力で行けることを確かめて歩いてきた。新館になって8時から開館するという博物館。8時の開館時にやってきた。台風の影響で雨が降るかと思っていたが、お湿り程度で排ガスがきれいになってよかった。

ゲートでパスポートを見せて中に入る。博物館は無料になっているが、チケットもなく愛想もない。旧館のイメージを払拭し、重厚な作りに変わった。

 

正面入り口には郭沫若揮毫の看板がある。これは旧館とかわらない。郭沫若は種々の看板を書いているが、これもできばえがよい。手書きの看板を残す風土は日本も見習ってほしい。

新石器時代の「七足鏤空器」というキャプションがついている。見たこともない陶器である。尉績寺遺址の出土である。祭祀用具とあるが、果たしてどのような祭祀に使用したのであろうか。

これも同じ尉績寺出土の新石器時代の陶器である。葬具と表示されている。大口尊と名称されているが、山東省出土の石器と同じである。まさかこの文様が他にあるとは思わなかった。

山東省のものと下の「火」のような部分の文様が異なっている。

漁具。網の下につける重しになる陶器。魚を捕るのにこのようなものを使っていたのかと思うと、現代までの変化のなさに驚くばかりである。筆だけではない。

周代の渦河の図、亳州を経て鄭州まで流れている。南部と黄河を繋ぐ大動脈であったことがわかる。

華陀のコーナー。

漢代の天静宮から出土した上善若水塼硯。天静宮とは、老子の故郷である渦陽県にある老子を祭った宮殿。硯と解釈するには若干の問題があるのではないかと思う。

次の展示場にいくための通路であるが、明らかに曹操運道を意識している。今でも観光地となっている地下通路は、ここよりももっと狭く低い通路が張り巡らされている。

玉の粒のようなものであるが、これは囲碁のコマだそうだ。漢代のものであり、元宝坑の出土である。

残碑記とタイトルがついている石刻資料。漢時代のもので袁牌坊二号墓から出土している。墓から出ているので「墓誌」と呼ばれている。拓影もあるのでじっくり見たが、彫刻などは、後漢末の石碑と比べて劣る。

亳州博物館の中心的な展示物である「草字塼」である。これを目当てに来る日本人、おそらく書家が多いのであろう。この資料のキャプションだけでは日本語がついているが、その日本語が面白い。

新しい博物館にはすべての展示資料に拓影がそえられるようになった。拓本は採り方が少し雑だ。

塼。後漢の資料。拓本の取り方がうまいと思っていたら、塼の彫刻もかなり深い。

元宝坑村一号墓出土の「陳元坦再」東漢の「奔馬画像塼」。1974年亳州市譙城区董園村出土。この展示室で最も重要は塼である。走りだしそうな馬の様子が土にへらを使ってよく描けたと感心する。

後漢の「為将奈何吾真愁惶」塼。1976年亳州市元宝坑村一号墓から出土してしている。このキャプションによると「どうしようかと心配でたまらない」という意味だそうだが、墓葬にこのような文字が彫りつけられた意味が推測できない。

塼の展示室の仕切りになっているパネルである。拓本を白黒反転させ、文字の部分だけをデザインに取り入れている。塼に曳かれるは空間か線質か。

出口にタイトルがかかっている。「曹操家族墓群」という表記。ここにも日本語があり、日本人の訪問が多いことがわかる。

後漢の「譙功曹史曹湖再拝謁職事」塼。元宝坑村一号墓出土。これは、曹湖という人物が埋葬されていることが想像できる。

隋の白瓷硯。磨墨された痕跡はなく、副葬品として納められたのであろうと思われる。

隋の儀仗俑である。手の先に穴が空いていることから、木製の何かを持っていたのかもしれない。

万仏塔は蒙城県老城区南部にある。蒙城県は、亳州の東南にあり、渦河の下流にあたる
この塔はここからの近くにあることから、展示がされたと思われる。

隋の□爽墓誌銘。諱爽、字文智。脩武の出身。北魏の永熙2年1月13日に譙城西北三里で死亡。隋の大業3年12月10日に埋葬。1973年3月に安徽省亳県機制磚瓦窑場で発見される。近くで隋の王幹墓も発掘されている。墓誌については蓋があったようだが(考古1977年1期「安徽亳県隋墓」)、銘文が二石に渡って彫刻されているように見えるが、銘文のとちゅうからが彫刻されているように見える部分は、実か蓋の裏面であったのかと思われる。

銘石の右上の部分。洛陽の墓誌と比べると、彫刻技術は著しく劣る。

写真は「十二生肖俑」。譙城区城父渦河南岸出土。時代は書かれていないが、他の俑と同じく隋の資料であろう。展示解説によると、十二生肖俑とは獣の首、人の身、立ち姿で腕を組み、長衣が地にたれている。ネズミ、虎、ウサギ、羊、犬の五種類がある。もともと十二種類の動物で個性され。中国人特有の一種の出生時間の方式を表示していたとされている。

宋代の酒瓷。二文字目はよく読めないが、「酒海」の草書体である。王羲之風の書で三輪田米山もよく使っている。高さが25センチほどであり、酒の種類あるいは酒蔵であったのか。

清代の亳州の地図。これを見ると、亳州も城壁都市であったのがよく分かる。今回、亳州の城北部に当たる花戯楼から北に歩いたが、和平路から華陀像のある和平路城門を潜るときに当時の城壁風のあとが見えた。

「亳」も文字をデザインし、シンボル的にしている。シャープな印象である。このデザインは展示だけではなく、しおり、文具、手提げなど多くで見られる。これで亳州博物館は終わり。

(5)商城博物館

商城博物館の横の祠廟入り口。

商文化景区の全景の地図このあたり一帯が、華商文化遺産主題公園となっているらしい。博物館もこの中にある。

商丘博物館新館の入り口。2016年6月開館でまだ数年しか経過しておらず、幅広い展示室を持つ。

建物左右のスロープから入り、奥の展示場へ歩く。緑と水にあふれる博物館である。この博物館は三層構造であるが、通常は2階と3階である。それらは歴史一庁から四庁、商業一庁二庁から成り立つ。

殷代の鼎。殷代の文物は商丘では例がないらしく、この青銅器も河南省安陽からの貸借をしている。

甲骨文。複製品であるが、文字の彫刻など相当にしっかり作っている。

商丘博物館を代表する所蔵品である金縷玉衣。前漢の文景時期の時期の作である。1990年代に芒碭山の黄土山漢墓から出土した。金鏤玉衣は2つあり、一つは勘案博物院に収蔵されている。

永城芒山保安山で出土した前漢の流金銅鋪首である。

商丘は画像石墓の宝庫である。20ほどの漢墓が発見されている。写真は漢墓の構造壁に刻された鳥。

同じく鳳凰。

この博物館は珍しい展示コーナーを持っている。「商業庁」という展示室である。メインは隋唐運河である。また、海上についても取り上げている。これが興味深いのは、いかに水上交通を使って物資を運搬していたかということに尽きる。現在では物資の運搬は、大容量のものは列車、少ない物は車である。また、長距離で運搬するのは、船と飛行機を使用する。ここの展示を見ると、大型の船でのというよりも小型のものに注目し、その出土物を紹介している。今回見ることができたのは、沈船からの陶磁器の他に人間の俑もあり、種々の発見がある。「商業により文化が作られる」という視点は私にはなく、新たな発見であった。

交易に使用されていた帆船のレプリカ。

隋唐運河の遺跡から発見された文物。この他、筆筒、青銅器なども発見されていた。

(6)千唐誌齊博物館・新安県博物館

洛陽市内から谷水まで30分、谷水から新安まで1時間、新安から鉄門まで30分、長時間をかけて千唐誌齊博物館までやってきた。写真はその横側。

正面玄関に回るとなぜか人影はない。千唐誌齊の看板があって「閉館施工謝絶参観」と書かれ門が閉まっている。事前にHPを見てきたが、そのようような表示はなかった。

急いで新安の新世紀広場までもどり新安博物館にやってきた。写真は新安博物館の裏側。ここからは一見新し博物館のように見える。

正面に行くと「新安県文化中心」と書かれている。青銅器をイメージしている。旧館の開館スタイルで午前と午後の間に2時間半の間がある。到着したのは11時だが30分で追い出された。展示室は2階に2室あるだけで文物の展示はとても少ない。

新安は場所的に著名な「函谷関」という関所がある。これより西を「関西」という。新安のあたりが防御壁になってたので、洛陽を守るためにここに関所が作られた。この瓦当はこの関所の建造物に使われた瓦当であるために「関」の文字があったと思われる。

秦代の壷。1991年に石寺変電駅から出土した。シンプルだが美しい形をしている。

漢代の陶倉。2001年に倉頭郷新郷址工地で出土した。驚いたのは多くに文字が書かれていること。隷書で書かれているが、陶倉に文字が書かれている物は、河南博物院など限られた場所でしかみられないため、ここで見ることができるとは思ってもいなかった。文字色は白く見えるが、変色したのかもともとこの色であったのかははっきりしない。

(7)偃師商城博物館

翌日は、洛陽の東へ。洛陽からバスで偃師へ。洛陽を早朝に出たが、老城の東側で偃師に行くバスに乗り換える。偃師の博物館は午前午後に開館に3時間以上の間があるので注意が必要である。

博物館の小さな公園で見かけた「夏」の文字。殷代の文字をデザイン化したものであるが、目立って面白い。中国にはこのような古代の文字をデザインしたものが目立って多い。

石刻芸術博物館には3つの展示室がある。メインの展示室と2つの石刻室である。芸術長廊は、造像碑などの大きなものが展示される。今回、北魏の造像碑の中で隷書の題記があるものを探したが、それは見当たらなかった。

博物館の中庭の風景。長廊は相当に長く、多くの展示物がある。

西側の展示室にある墓誌蓋。蓋の彫刻からは彫刻の技法がよく分かる。

西側の展示室の全景。この部屋はすべて墓誌であり、北魏の資料も多く含まれる。報告書や著録に記載がある資料であり、拓本も採られている。すべてケースに覆われているので、原石は観察しづらい。

展示室一番南にあるのは顔真卿書の「郭虚己墓誌銘」。大型の墓誌であるが、黒々としすぎて文字が見えない。拓本の方がよくわかる。

写真は正面の夏商王都文明展庁に入り口にあるパネル。この偃師文物古跡分布図を見ると、現在の偃師の町と遺跡の関係がよく分かる。商代の遺跡はこの周辺であるが、漢代や北魏の遺跡は少し西になる.

夏代の亀。二里頭遺跡から出土している。

夏代の獣面銅牌。二里頭遺跡から出土している。

文字はないが占いをした跡のある獣骨が沢山出土している。

この博物館のメインの展示品である「緑松石龍」。青色の石がとても美しい。出土写真を見ると、一つ一つの石を組み合わせて龍を作っていることがわかる。

(8)金村城壁

長年地図でしか見ていない買った金村にやってきた。漢魏城の北西の位置にあり、皇帝が居住していたところである。町の北側にかけ上がりの場所にこの寺院がある。梅で有名な場所のようであるが、これが城の遺跡とどのように関係があるのかはわからない。

城壁跡があると聞いていたが、周囲にはそのようなものはない。諦めて、金村を南にしばらく歩いたときに、ふと振り返ると、垂直に切られた山のような部分を見つけた。城壁には見えないが、一応行ってみた。

金村内の城壁付近を東西に流れる小川。これらは新しい物であるが、もともと川があったのかもしれない。

夏の大草をかき分け、近くまでやってきた。城壁は予想以上に大きく、壁と言うよりも崖である。

外壁の近くは堀のようになっていてまた草が生い茂っているために近づけない。冬の時期に来ようと誓って撤収した。近くの魏代のものを見たが、次の中に石を混ぜたようなもので版築の壁ではない。所々人工的な穴のようなものがあるが、これは盗掘の痕跡であろうか。

金村北の城壁を離れ、南に歩く。細道の左右は入ることができないが、小道の東には先ほどと同じような土で少し高い段のようなところが続いている。これが閶闓門であることはあとで地図を確認して知った。また、西もフェンスが貼られているが、これも遺跡。地図には書かれていないが、この遺址が「漢魏洛陽城遺址」であることがあとで分かった。

たまたまフェンスが空いており、写真をとることができた。見た限り、遺構が見られるということはないが、発掘作業は行われているので、後は開放を待ちたい。

(9)洛陽城内遺址

以前からある「漢魏洛陽故城」の看板。以前の写真を見ると、ここに手つかずの城壁後が残っていた。ガラクタやゴミも一杯。何年かぶりに訪問すると、このあたりは入れなくなり、遺跡もきれいに整えられていた。地層のようになっているが、これが本来の城壁である。

城壁の断面。

これを版築と言うべきかどうかわからない。

ここにはもう一つの古い碑がある。「内城西城垣」と書かれている。これだけではわかりにくいが、図を見ると、この地点が漢魏城の内城の中にある西側の城壁の中央部分であることが分かる。金村から歩いて1時間はかかる。巨大な内城である。

国道310号線を南北に横切るような形で小川が流れている。ちょうど、西側の城壁の外と白馬寺の東側にあたる。ちょうどこのあたりに漢魏の河川も流れていた。

国道沿いにこの「漢魏洛陽城遺址」の入り口がある。南北に長い道路が整備されている。

金村から歩き始めて半日以上、30度を超える中、この長い道路を歩くのはとてもつらい。

しばらく歩くと、この看板があった。「西陽門」は古い地図にはないが、内城の西側城壁中心に位置する。厳密には、城壁の外側、白馬寺よりである。この西陽門の西には白馬寺の建物が見える。

櫓がたっているのはこの遺構の発掘途中であるためか。

水門とされる部分には、硬いレンガが敷き詰められている。

凡そ1メートルの高さ、幅が50センチほどの水路である。

西陽門遺址の東側に、内城西側の城壁が続いている。きれいに切り取られている。

(10)芒山調査

今回、邙山の調査をしようと、西側と中央二カ所の道路周辺で踏査した。写真は孟津のバス駅。一見、列車の駅のようであるが、バス駅である.但し、ここで乗り降りをする空間はなく、あくまでもシンボル的なものである。

現在建設中の孟津博物館。かなり大きい規模であり、完成が楽しみである。北魏の文物の展示にも期待したい。朝朝大道沿いに建設中。

写真は朝陽鎮あたり。邙山がよく見渡せる。起伏があるが、道路沿いはかなり開発が進んでいる。

写真は楊冢の入り口。ここから急激に上り坂になる。

写真は、邙山を西側から撮影したもの。寧洛高速道路の近くであり、深い谷になっている。

(11)洛陽博物館

洛陽博物館はいつ行っても静かなたたずまいをしている。洛陽の名所になったような印象がある。

博物館に入ると、建国70周年の企画展が開催されている。習近平国家主席の語録を大きくパネルにしている。

洛陽博物館「融合之路」からの一枚。大同から洛陽への遷都をテーマとして、出土資料を展示している。

洛陽城の発掘状況。この写真と実際に歩いた道を重ねると、遺跡の大きさと位置を推定することができる。

北魏大同の埋葬の葬列図。中央に二つ棺を運ぶ牛車がある。副葬品の類いは見られない。

この壷は「青瓷鶏首壷」と命名されている。1991年に洛陽邙山冢頭村の景陵から出土した。景陵といえば宣武帝の墓で、洛湯古墓博物館の一部として公開されている。この博物館には関係資料は全くなく、このような美術品があるとは想像していなかった。以前、撮影隊がこれを念入りに撮影していたが、資料的価値、美術的価値が高いと思われているのであろう。

洛陽博物館所蔵による葬列図。赤の色彩が強く残っている。人の服装が大同のものと明らかに異なっている。

洛陽龍門博物館所蔵の石仏。

漢魏洛陽城で出土した北魏の獣面塼飾。大型の塼で閶闔門で使用されていた瓦当である。

(12)洛陽民俗博物館

洛陽民俗博物館は、午前午後の二部制での開館。

入り口上には「潞澤会館」の扁額。博物館を代表する資料である。

建物上部を飾る陶製の焼き物。

博物館内にある洛陽扁額博物館の看板。多くの扁額が収蔵されている。

庭先になったザクロの実。5月に訪問した時には花が咲いていたが、夏を迎えそのザクロが結実していた。

清の光緒年間に書かれた看板。国子監で使用された看板。

清代の看板。

(13)てん水・洛河

写真は洛陽老城の民俗博物館から南に延びる瀍水の写真。河口100M手前という位置。治水の観点もあって、何段にも防波堤が築かれている。水流が河口から上流に逆行していたのには驚いた。

川には何本も橋が架かり、屋根のある橋も多く見られる。写真もそのような橋で、中国音楽のグループが音を響かせている。

洛河まで来ると、観光用の建物が目に飛び込んでくる。洛河は大きな川で、流れもほぼわからない。古代からこの河川が使用されていたことが容易に想像できる。

写真は新街橋と朱桜塔。洛河にかかる橋としては小さい物だが、下から見ると相当に大きい。丁度川幅が狭いところに掛けられている。

河の流れはほぼなくて湖に等しい。

道路標識。洛の草書をデザインとしている。河のあちこちで見ることができる。

こちらは外灯。「洛」字を籠字にしている。

新街橋まで登った。洛河が上から眺められる。

河川の周辺は公園が整備されているが、暑くて人はいない。

昨年から洛陽の瀍水を歩いているが、今回は洛陽市実験中学から老城南西角から西に流れる水路を歩いた。写真の場所はこの水路が大きく曲がる洛陽市第9人民病院付近、柳が涼やかそうであるが、実際はそれほどきれいな水ではない。川の流れは比較的に速い。

写真は凱旋東路と交わる付近。

写真は定鼎南路から東向きに撮影した。洛陽周公廟公園内の周公廟が見える。

この水路は周王城広場の南で一旦切れる。おそらく地下道を通って更に西に行くのであろう。このあたりになると、人工密度が高くなり、河も汚れているような気がする。川幅は狭くなっている。

(14)中国国家博物館

中国国家博物館外観。建国70周年を目前にして警備が厳重。その中、博物館前の関所でパスポートが機械に反応せず、偽造と疑われ一時拘束。博物館入り口のシステムもちょっと変わっていて、以前はこの写真の東側でチケットを貰っていたが、今は博物館に入る前に小さな小屋のようなところでパスポートを見せてQRコードが印字されたチケットを受け取るようになっている。

今回の訪中最終日前日、鄭州から北京に戻ったが、到着からすぐに中国国家博物館にやってきた。建国70周年を記念し目玉の展示を数多くしていた。書店で資料を探すつもりだったが、この企画を逃すと他はないと考えて訪問した。国家博物館は敷居が高く、簡単には入れない。HPを見直すと、各省の特筆すべき展示を出展しているようである。

一番見たかったのがこの展覧会。鄴城から出土した北朝の石像の展示である。入場料が30元。看板をよく見てほしいが、中央の看板のQRコードにアクセスし、料金を支払うようになっている。最近は10元の麺でも1元の水でもQR決済をしている。が、この料金引き落としは中国の銀行口座から行われるので、外国人には厳しい。ペイペイでは決済できない。その場合、博物館北側1階の小さなカウンター(以前は、ここから退出するようになっていました。出口を向いてちょうど背面にある荷物預け場のようなところで、チケットを販売しているようなことは全く書いていません)、見たい博物館を指定して料金を払う。そうすると、感熱紙に印字されたQRコードを渡される。

鄴城は、正岡さんに同行して一度現地を訪問したことがある。河南省安陽と河北省磁県のちょうど中間にあり、タクシーを調達しないといけない場所である。会館したばかりの鄴城博物館は大きく、アミューズメントパークのようであったが、中の展示はすごかった。その中で、発掘されたばかりの展示品が今回の白石の仏像である。しかし、鄴城でみたよりもこちらの方が質量ともに上だった。

北魏の石函。

北斉の普弁造弥生像定座の拓本。天統二年(568年)の紀年がある。鄴城考古隊の所蔵。既に行書のリズムが見られる。

 

北魏の譚副造釈迦牟尼像。顔の一部が壊れているが、展示品を代表する同等とした石像である。北魏孝文帝遷都以前の造像であるという解説があるが、この背面の文字は相当に完成度の高い楷書体の造像銘である。鄴城は東魏以降の都であり、このような堂々とした楷書はほぼ例がなかったが、鄴の書について見直す必要がでてきた。

北斉の弟子立像。ユニークな顔つきをしているが、北魏のものとは異なっている。

北斉の座仏五尊像。

北斉の弟子立像。朱色の色彩が残されている。

東魏の仏頭。

朱と金が鮮やかに残されている。

北斉の弥勒七尊像。朱色が鮮やかに残されている。

弄女等造弥勒像。東魏の武定五年(547年)。台座に文字があるのだろうが、それは確認できなかった。

側面から見ると、向背が大きくゆがんでいることが分かる。

痩躯

北斉から隋と推定される菩薩立像。これを見ると、山東省青州で出土した東洋のビーナスを思い出す。中国国家博物館にも展示されているものであるが、もし顔の部分も発見されるとインパクトは大きい。鄴はまだまだ発掘されていない場所もあり、将来が期待される。

この展示はとても面白い。仏像をスキャナーし、その模写図を自動で作成するシステムのようである。デジタル展示であるが、これを食い入るように見ている人がいた。専門家にとっても見逃せない展示のようである。なんと言っても鄴まで行くのは大変だから。これに似たシステムは早稲田大学の大橋先生が、壊れた仏像を自動的に復元するシステムを作っていると見たことがあるが、実際にできるのだと驚いた。

北斉の仏頭。他とは少し顔つきが異なる。

(15)中国国家博物館

変わって新疆の文物展にやってきた。

資料は東晋の「県兵曹刺為点閲兵人事」。墓葬から出土している。

東晋の「前涼王宗上太守啓」。墓葬から出土している。

仏龕をイメージした展示室。地方の展示ではよく見かける方法だが、国家博物館でもこのような展示形式になっている。苦肉の策か。

小城故事。里耶秦簡の展示室正面。国家博物館でも会館時間中に平気で掃除をしている。

小城故事。写真は最も大事な「洞庭郡」の木牘。

珍しい秦の量。従来の銘文資料。歴史博物館の時代には展示があったが、しばらく秦権・量は特定の資料しか見ることがなかった。

容庚の『秦金文録』に掲載されている資料。

展示室第1室にこの竹簡が転じされていて驚いた。レプリカではない。

地下一階の「古代中国」の展示。青銅器「子母方鼎」。写真に写っている人と比べて見るとその大きさが分かる。中国を代表する青銅器がここに集められた。